賞金首に自白剤を打った話

薄暗闇にくぐもった声が微かに響いた。 音の元はたどるまでもない。なぜならここには拷問器具を扱う者が五人と、扱われる者が一人、それだけしか居ないからだ。 最も、今回のターゲットに関しては、その立場が入れ替わる恐れがあると言うので、いつにも増して厳戒態勢をしいてきた。 上司が鬱陶しいのは今に始まったことではないが、彼は標的の写真を見せると執拗なほどに注告してきた。曰く、その男の目を見てはいけない。曰く、その手元も見てはいけない。お前たちはその姿を見て、拍子抜けするかもしれない。だが決して油断するな。必ず後悔することになるぞ。 臆病者めが。嘲りたくなるのを堪えて大人しく頷いた。こんな所で上司の気分を損ねて、報酬をみすみす逃したくはなかった。 上司はもう一つ聞き慣れない言葉を言っていた。 「しゃりんがん?」 訊ねるとそんな事も知らないのかと呆れた顔をする。聞くことには、それはある一族特有の赤い瞳で、持つ者は大層危険な術を操れるらしい。そして、この瞳に紋様が浮かぶ時にはその者はとりわけ冷酷になり、手がつけられないと言うのだ。 望遠鏡越しに見た標的は、確かに赤い瞳をしていた。それでも、木にもたれかかって立つその姿は、とても聞いたようには見えなかった。なんと言っても隙だらけだ。いっそ罠ではないかとその全身を観察すれば、右腕と下腹部がぐっしょりと赤く濡れており、大方先にも敵襲を受けて逃げてきたに違いない。 そういう訳で、男を捕らえるのは造作もなかった。 それでも俺たちは律儀にも上官の言いつけを守るべく、術式を込めた布地をもって、対象の目を塞ぎ、手首を椅子に縫い付けたのだった。 簡単な任務だった。だから、目元を縛る一瞬向けられた赤い目に、背筋を緊張が走ったのは、たぶん気の所為だろう。 雲行きが怪しくなってきたのは、それから数時間が経ってからだ。 男が一向に喋らないのだと言う。それどころか腕に刃を突き立てようと腹を、首を、踏みつけようと、呻き声さえ上げやしない。 そして不可解な事がもう一つ、幻術の一切が男には効いていないのだ。 そのうちに、焦れた同僚がアレを使ってやろうと言い出した。嗜虐的な笑みを浮かべて楽しんでいるかのような口調をしてはいたが、想像に反して手強い標的を気味悪がっているのは明らかだった。 早く持ってこいとの怒鳴り声に肩をビクつかせた新入りが、そそくさと裏手に引っ込み、小ぶりなトランクを持って帰ってきた。ガチャリと安っぽい音を立ててトランクが開く。中にはアンプルと密封された注射器があった。封を切ると小瓶を傾けて、シリンジを満たしていく。そんな古臭いものまだあったのかよと俺が言うと、幻術が効かない相手にはむしろ有効なのだと興奮した面持ちで囁いた。これ以上何か言うのはやめておく。嗜癖の歪んだ男だ。こいつを怒らせると厄介だった。 同僚は、早速男につかつかと歩み寄ると、腕を掴んで針を突き立て一気に中身を押し込んだ。やはり男は反応らしい反応を示さなかったが、指先が反射でピクリと揺れた。 いくらなんでもこんなに急激に入れては死ぬんじゃないかと尋ねれば、こいつは暗部を出ているらしいから大丈夫だろうと返された。自白剤の類には慣れているはずだ。もっともこれは最近出回り始めたもんだから効果の程はお楽しみってやつだな。まあ、死んでしまっても俺たちには関係ないからな。安心しろ。 そう、賞金首を然るべき相手につき渡せばそれだけで大金は手に入る。それが息をしていようといなかろうと大差はない。今している事はあくまで余興なのであった。 はたしてその効果の程は、五分も経たぬうちに現れた。男の体は気づけばぐったりと椅子にもたれかかっている。どんな拷問にも乱れなかった呼吸音が、今は引きつり不規則だ。 隣の同僚がゴクリと唾を飲み込むと、興奮した面持ちで唇を舐め、食い入るようにそれを見つめた。どうしてか俺も釣られて向けた目線を離せない。男の長い黒髪が汗に濡れて痩せた頬に張り付いていた。苦しげな呼吸に合わせて上体が揺れる。これも薬の効果なのだろう。筋張った首筋を汗が伝った。 同僚はもう必要ないだろうと椅子の前にしゃがみ込んで、俺が止める間もなく男の頭の後ろに手を伸ばし布の結び目を解いた。ふわりと柔らかいそれは音を立てずに床に落ちた。己の体が意思に反して身構える。しかしそこにはあの赤色はなく、落ち着いた黒い瞳があるだけだった。足元を見つめゆっくりと瞬きをするその目元には長い睫毛が影を落としており、場違いにも静かな印象を醸し出していた。 同僚が男に言葉を投げつけ始めた。「貴様らの組織がやっている事はなんだ」「写輪眼の隠し場所を教えろ」「木の葉は何を考えている」。 それから、「仲間を殺すのはどんな気分だ?」 男は目を細め顔を上げた。同僚はいよいよ目を見開いて鼻が付きそうなほど男に顔を近づける。しかし男の緩く開いた口からは何一つ言葉は出ては来なかった。苦しげな息と不似合いな冷徹な目が淡々と目の前の相手を観察している。そんな印象を受ける。これではどちらがどちらを試しているのかわからない…………ふと、上司の忠告が頭を過ぎった。 暫く睨み合いが続いた後、根負けしたのは同僚だった。掴んでいた男の顎を乱暴に手放すと、悪態をついて出て行く。 いつしかこの部屋に男と二人きりになっていた。 先程から胸に原因不明の嫌な感覚が纏わり付いている。それは説明し難く、強いて言うなら捕食者が近づいた野生動物が抱く本能的な恐れに似ていた。 この部屋を早く離れねばならない。 そう思った矢先、項垂れた男の足元に、目隠しと別に細い何かが落ちていることに気がついた。見ればそれは、先程上の男に突き立てられた注射器であった。 手足は縛ってある。動ける訳が無い。それなのに、やられるという思いが頭を支配した。咄嗟に駆け寄り拾い上げる。上から男に見つめられている気配がして、体が凍りついた。 恐る恐る顔を上げると、その目はこちらを狙ってはいなかった。正しく言えばその視線はこちらを向いてはいたのだが、どこにも焦点を得ていない。殆ど微睡んでいるように、じっと目を閉じていることもあった。 薬は今になってその効果のピークを迎えているようだった。 その刹那、信じられないものを見た。 男がふっと眉を下げ、目元をゆるりと綻ばせていた。微笑んだのだ。 ゆらりと招くように伸ばされた手が、頭上を過ぎた。男が何かを呟く。 「……」 その先には冷たいコンクリート壁が佇んでいるだけである。 見上げた男はあどけなく、歳若い少年のような表情を浮かべていた。 もう一度、その口が動いて音を形作る。 「……スケ…?…サスケ。」 柔らかく、幼子に対するように織られたそれは誰かの名前のようであった。 薬に侵された男は、朧げな意識の中で、視線の先に誰かを見ていた。 繰り返し、繰り返し、呼びかける愛おしげな声が聞こえてくる。 ほんの一瞬、冷たく色の無い床が眼前から消え、そこに温かな部屋が見えた気がした。

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