無力を越えたい話
オレは兄の一つの顔しか知らない。
例えばオレが熱を出した時、ぼんやり霞む意識の中、怖くなって名前を呼ぶと、すぐ隣に兄の顔があった。まだ頬に丸みを残して前髪を下ろした彼は七歳くらいだったろうか、頬ずえをしていない方の手で優しく俺の頭を撫でると、大丈夫だと微笑んだ。
兄が酷い怪我をして帰ってきた事もあった。あれは彼が暗部に入って間もない頃だから、それから数年後だろう。オレは脛をしとどに濡らす赤に飛び上がって、泣きながら母の元へ走った。怪我をしたのは兄だったのに、当人はあっけらかんとしたもので、
「こんなの何でもないんだよ」
と笑った。まだ血は止まっていなくて不安だったけれど、その声はとても力強く、兄が大丈夫と言えば、そうなんだと納得させられてしまう。その時も、あの顔をしていた。
そして長い時間を隔てて……本当に、久方ぶりに見たあの時。それから、次に会った、あの時。
そうだ、いつだって彼は「兄の顔」しか見せなかった。
むろんオレは弟であり、それは何年経とうが揺らがぬ事実だ。
弟のオレは子供扱いされることがもどかしく、そうして遠ざけられることを酷く悔しがった。
二度目のあの時には、一度は個として認めてくれたと思っていたが、かの態度はいつだって、その目にオレが弟としてしか写っていないことを示していた。
そう気づいたのは、あれからゆうに二十年は経ってからだった。ずっと兄に追いつきたい、超えたい、彼の力になれる存在でありたいと願ってきたというのに、笑えもしない話だ。
その兄弟で今、対峙している。
直ぐに動けるよう、足は地面を踏みしめ、手には印の構え。夏の日差しが足元に濃い影を落としている。
この状況をつくったのは、後ろから声援を投げてくる愛娘である。
先週の日曜日、始まりは、パパと叔父さんどっちが強いの、というよくある話からだったと思う。気づいたら彼女はイタチに、見たいと興味津々に詰め寄っていた。
それをいい事にオレも、手合わせをしてほしいと頼みこんだ。まさか俺にまで言われるとは思わなかったのだろう、目を丸くした彼は、冗談ではないと続けるかと思われた。なにしろ、あれからは些細な衝突すら避けてきたのだから。
だが往々にして、叔父とは姪に弱いものである。それはあのうちはイタチも例外ではなかったようだ。
衝突を避けてきたと言ったが、ナルトに言わせればそれはもう生半可な避けかたではないらしい。兄弟なんだから、そんなのは当然だろう?
こんな二人であっても、忍、いざやり合うと決めたなら、本気だ。娘だって目を輝かせて見ている。
手合わせ開始の合図と同時に、短刀を手に兄の間合いへ踏み込んだ。
胸元に突き出された刃を音もなく流して、黒々とした瞳は凪いでいる。
その瞳力は使えなくなって久しいが、開眼以前から抜きん出た才覚を見せていた兄のことである。療養と称して与えられた歳月は、それを補うのに十分だった。今日のような体術の掛け合いではなおさら、上忍相手だって容易く動きを封じてしまう。
刀を持つ手を素早く兄の器用な手が捻りあげ、突き放される、バランスを崩し飛び退いたオレを真っ直ぐに見て再び接近してくる。兄の手が喉元を掠めた。その手にいつの間にかクナイが光っている。すんでのところで躱すと間もなく蹴りが頭上を過ぎる。刀は兄に定めたままであるのに、彼にはまるで牽制にならない。
すぐ立て直し前進すれば、金属がかち合う音が鳴った。
変わらない兄の鋭い動きは、あの日の戦いを思い起こさせる。
油断している暇など無いと言うのに、目を逸らして空を見たのは辺りが急に暗くなったからだ。それにやけに息苦しい。見れば変わらず日は照りつけている。
それから二度、三度、兄と接近する度、存在しないはずの黒いマントが視界を過ぎり、くらりと目が眩んだ。
ここはどこだっただろうか。
異なる金属がぶつかる、キンキンと耳障りな音は、どこか遠くで聞こえている。かち合う刀、その次に来るのは顎に走る衝撃だ。そして向き直った兄が端正な顔に歪んだ笑みを貼り付けて、真実とやらを語り出す。そのまま訪れる幻術。大きく打ち上げられるようになった火遁。淀んでゆく空。……この続きはよく知っている。
辺りは雷雨に包まれている。打ち付ける冷たい雨の中、最後に目に映るのは、倒れて動かなくなったイタチである。
オレが殺した、そのーー
息をしたくて顔をあげると、視界の端にサラダが映った。彼女に焦点が合う。隣のサクラに身を寄せて心配げな顔をしている。
そうして思い出した。どうしてオレはこの手合わせを頼み込んだのか。
視界が晴れていく。その隅で皮膚から毛先ほどの距離を通りすぎるクナイに気がついた。間一髪。
もう一度深く呼吸してひりつく心を宥め、刀を振るう。
刀に返る手応えは、今度は、目の前の兄の存在を確かめさせた。
押し引きを繰り返して数度目。
首筋に刃を添えた手を捕らえた。掌を覆い被せこちらに抱き寄せるよう脚を半歩引く。その一瞬が、ほんの半歩分兄の上体を傾げさせる。
それで腕は固まった。ついで喉元に刀を突きつけると、相手は息を1つ吐いて、ゆるりと降参の合図をした。
「強くなったな」
目を合わせた兄が、ひどく安心した顔をした。
「……兄さんのお陰だ。それに、」
答えながら、彼が勝敗についてだけ言っているのではない事は、オレにもわかっていた。
***
あれから、変わったことが二つある。
まず一つ、兄が傍にいてくれることが減ったように思う。十中八九、オレが傍にいなくても大丈夫だなとか、そんな事を考えているのだろうが、そんなつもりで手合わせを願ったのではなかった。
オレはずっと彼と過ごす時間を欲しているというのに。
だから、その分たくさん話をしようと思った。幼い頃のように、暇さえあれば俺から兄の隣へ行った。
もっともそのうち、家族と過ごせと眉を顰めた兄が、任務だなんだと言って姿を眩ましだしたので、ゆっくりと話すのは、妻とサラダが眠ってからの事が増えていったのだが。
任務が終わり、夕食を食べ、二人が眠りについた午後11時。穏やかな寝顔を眺めて、そっと布団から抜け出す。
今夜もやっと兄に会える。逸る心が自然と足を急がせる。
軒下に座る兄はじっとどこかを見つめていたが、オレに気がつくと軽く手を挙げた。
「暑そうだな」
襟でパタパタと仰いでいると楽しそうに言ってくる。そう言う兄がうちはの装束を着ているところは、もう久しく見ていない。
どちらからともなく、今夜は少し歩こうかと言って、外に出た。
辺りは月に白く照らし出されて、いつもよりもよく見える。
二人きりになったので、もう一つの変化について問う。
「兄さんは心配事とかないのかよ」
「なんだ、急に」
「ここの所、いつも何か考えてるだろう。」
「そうだな、最近隣国との会合があったろう。ナルトくんが行っていた……。あれは里の今後の安泰に大きく関わる。気になっていたが、うまくいったようだな。」
ナルトくんはすごいな、と嬉しそうな顔。そういうことじゃねえよ。
「なんだ、何か言いたそうだな。」
「兄さんは人のことばかりだ。」
不満を零せば、イタチは困ったように笑った。
「そんな事はない」
「あるさ。」
「オレはオレが気になる事をしているだけだ。今までもずっとそうだよ」
「それに、今はこうしてお前たちと一緒にいられている。今何を悩むことがあると言うんだ」
「じゃあなんで……」
食い下がろうとすると、昔から変わらない困り笑いで首をかしげる。
「お前は優しいな。ありがとう。」
それからは、何でもない話をして歩いた。
気がつけば、見覚えのある道に差し掛かっていた。いや、そんな表現では生温い、忘れたことはないあの道。
満月が出ている。
「なあ、兄さんはもしもの世界の事を考えたことがあるか?」
「無限月読の話か?」
「ああ。オレは……もしも、が叶うならしたかった事がたくさんある」
「あれは真実を欺くことと変わらない。あまり積極的に考えるべきことではないな……。だが……」
「オレも、最近よく夢を見る。」
兄の目を見つめる。
「もう一度、あの選択をする夢だ」
眼光は幾分柔らかくなったが、それでも感情を読み取らせない瞳は、暁に居た数年間を残している。
いつものように、もうこの話を続ける気は無いようだったが、じっと見つめていると、観念したように言葉を続けた。
それが意外で足を止めてしまう。
「夢の中では、オレは答えを選ぶ前なんだ。……あれが、正しい選択だったとずっと信じていた。だが、今となってはそれが最善の結果をもたらすとは思えない。」
人気のない周りに目をやって言う。いつになく雄弁な言葉が、早く言い切ろうとするように急いてくる。
「イタチ」
「オレの友ならば、もっとうまく成せたのかもしれない。」
「なぜオレだったのだろう」
任務を受けたのが。言葉の続きを推測する。
イタチはスタスタと前を歩いていく。
月明かりに向かう彼がどんどん遠ざかっていくように感じて、呼び止める。
そして、ゆっくりと振り向いたイタチから視線を反らせなくなった。
イタチは先程から表情を変えていない。口が言葉の続きを紡いだ。そしてオレは推測が誤っていた事を理解する。
「みんな死なせたのに。」
それはあまりにオレが考え慣れたものだった。
肩越しにこちらを見る感情を映さぬままの瞳に、次第に水分だけが溜まっていって、ついに重力のまま伝い落ちた。
一瞬のタイムラグの後で、彼は少しだけ目を見開いて眉を寄せた。
心臓が大きく脈打つ。
初めて、「兄」でないイタチの姿を見ている。直感がそう言った。
ずっと望んでいたことだった。
それなのに。するべきことが定まらない。その肩を抱こうか。何か言葉を、かけるべきか。そのままふらふらと彼へ手を伸ばした。
胸への軽い衝撃と体温。
バツの悪そうな声で「また失敗したな……離せ」と聞こえた。
なんとか彼を腕に閉じ込めても、今起こっていることはぼんやりとして現実味がなく夢を見ているようだった。
悦びにも似た形容し難い思いに代わり、徐々に心を占めてくる発見があった。
あの人の「大丈夫」は虚勢だった。何も心配ごとなど、世界で起こってしまった事も、弟のオレがする事も、受け入れられないことなど無いのだと、安心しきっているような姿も。
否、お前を信じているとか、未練はないとか、そう言った事だって嘘ではないのだろう。ただ、本人すら本心に気づいていなかった。
それがなぜか、今ならわかる。
彼には心配事が多過ぎたのだ。
優しい彼に一番後回しにされた、彼本人の気持ちまで、ついにその意識が届くことがなかった程に。
ここに細身の身体がある。この男はもっと華奢で幼い頃から、その身に余るはずの重荷を抱えてきたのだ。ずっとずっと、里を、平和を、……オレを、守るために。
オレも今、サラダを見ていると愛しくて、危うくて、守りたいという気持ちに気がつく。強くあらなければと思う。
それと同時に思うのだ。
十三歳なんて、子供だったじゃないか。
ああ。彼が周りのことなど気にしないでいられるだけの存在が周りにいたならば。大人は何をしていた。父は。母は?
……いいや、彼らは彼らのやり方で、オレたちの未来を守ろうとしていた。ただそれは兄の安心とは両立し得なかったのだ。わかっている。
ならば、自分は。自分がその存在になれていたら?
彼が「任務」の遂行を決めた頃、オレたちは今よりも傍にいた。だから、いくら八歳の少年といえど、彼の苦しみには気づけたはずだ。
あんなにもしっかりと立っていた兄に対して、当時の自分は腹立たしいほど無力だった。
自責に走りかける思考を諌める。
あの日、オレは兄を完璧と言った。悪いのは全て周りなのだと考えた。それらは結局、兄に寄り添うものになり得たのだろうか。
思い出さなければならない。過去も変わることはない。今、オレは彼を支えたかったのだ。
かつての兄には拒絶するような色があった。しかし今はどうだろう。
顎を引くと兄の横顔が見えた。彼のゆっくりと回そうとした手が腕に触れることなく背中に触れると、長い睫毛を浸すものが静かに水量を増した。
目まぐるしく回るこちらの思考と対称的に、兄は口を噤んでそれきり動かない。腕の中の体は微かに強張って、力無く降ろされた手は抱きしめ返してはくれない。
微かに苦しげな呼吸だけが聞こえてくる。
今彼を苛んでいるもの。彼が飲み込めていないだろうもの。それはきっとオレが、彼のお陰で、必要な時に殺さないでいられた感情だ。
彼の背にもう一度強く力を込めた。
***
「すまなかった。サスケ」
「兄さんがそんな風に考えていたなんて、知らなかった」
「オレもだ」
それから暫くして、帰路を辿りながら話をしている。
オレはただ、一緒に帰れることが泣きたくなるほど嬉しかった。
気がつけばあの満月は見当たらず、空が白んできている。
こんな時間に帰ってきたオレたちを見て、あんたたち何してるの、イタチさんだって不養生しちゃいけないんだから、わかってるの?と怒っていたサクラだったが、何か考える顔をすると、少しして熱いお茶を入れてくれた。
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